会場の椅子はたちまち足りなくなり、立ち見で参加する人がびっしりと詰めかけた。進行役の山口貴士弁護士から「昨年の総選挙で落選したが、この問題で頑張ってくれた保坂さんが会場に来ているので」と突然の紹介があり、何の準備もないままに挨拶。「法律や条例がまったく知られずに議論され、一般の人たちに知られるのは、採決の直前ということは、これまであった。大勢の人たちが今日集まり、表現の現場にいる先生方も声をあげたことで、社会的に問題提起することが力になる。特に、二次元創作物(マンガ・アニメ)にかかわる規制については、国会での「児童ポルノ禁止法」の論議でも「対象外」としている事柄。国会の議論は棚上げして東京都が条例で突っ走るのはおかしい」と発言した。
ここからさらに反対を表明する企業や団体などが増えていきます。翌日にはマンガ学部と国際マンガ研究センターを保有する京都精華大学が意見書を発表します。
A 表現の自由は弱いところから浸食されていく。これが規制できるならこれもいいだろうと広がっていく。そんなことを言うのは、歴史を知らない人なのだ。規制派はこれで安心とは絶対に言わない。
細かい議論が沢山あると思うが、何で反論している人の事まで考えなきゃいけないのか。不愉快で子供に危険が及ぶ物と公共の福祉とのどちらに重きを置くのか、ガンと後者に持っていけば良いと思う。マイノリティに配慮し過ぎた挙句、当たり前の事が否定されて通らないというのはどうしても納得出来ない。
つまり、互いに相容れない価値観同士が激突すると何が起きるのか、そしてこういう動きに便乗する動きとはどういったものなのかという「今までは見えなかったブラックボックス」の一端が、ネットが本格的に普及した今、ついに目前で目撃可能な事態になってきているのだ、というのが正確な状況です。
私が呟くと、彼は優しい笑みを浮かべた。少し照れくさそうに、私の髪に付いた砂を払ってくれる。その手の温もり、香りが、いつまでも心に残るだろうと予感した。
しかし日本における哲学用語としては両者は異なった使い方をされる。英語における truth は actuality がrisk(可能性)、inevitability 夕焼けの約束 もしくは requirement(必然性)と同様に事物の存在のありさまや様子を意味する存在論的概念であるのに対して、日本の哲学用語としての truth は ideality(観念性)と対を成す用語である。
結局、明らかなわいせつ物については、既に裁く法律が整備されている。
要するに、どこかの誰かが主観で判断して、見た目が未成年っぽいグラフィック&未成年っぽい声の場合、アウトとなる、ということです。どのような基準で決めるかというと「見た目」であって、年齢などの明確な基準はなく、もうめちゃくちゃです。
なお、この会見の様子はあちこちで書かれていますが、以下がわかりやすいです。
条例改正案の反対メンバーは、民間組織と政府、地方自治体、保護者、学校、地域との連携が必要不可欠であるとし、条例などの規制が一律に強化される場合、民間の取り組みを萎縮させ、バランスを欠いたものになるとの見解を示している。また、条例改正案について、民間の自主的な取り組みを最大限尊重し、条例改正の必要性有無も考慮した上で、慎重な審議を求めている。
世界史を勉強した人であればわかるはずですが、現在までの世界史の中で、最終的に真実が暴露されなかったものはどこにもありません。最後の最後には真実が明らかになります。どんなに隠されようと、嘘をつかれようと、理不尽な力によって封じ込めようとも、「本当のこと」は実際に起きたことであるがゆえに強いのです。
規制派の理論根拠は「幼女絵に触発されて現実の幼女をレイプするかも知れない」だろ?
藤本由香里・明治大准教授は「18歳未満とか、何が健全なのかの判断は、いくらでも恣意的に解釈できる」と危惧している。